大判例

20世紀の現憲法下の裁判例を掲載しています。

宮崎地方裁判所 平成7年(ワ)19号 判決

原告兼亡富田稔承継人

富田泰隆

右訴訟代理人弁護士

日野直彦

被告

安田義重

右訴訟代理人弁護士

殿所哲

主文

一  原告の請求をいずれも棄却する。

二  訴訟費用は、原告の負担とする。

事実及び理由

第一  請求

被告は、原告に対し、三一三九万一四四四円及びこれに対する平成七年二月二日から支払済みまで年五分の割合による金員を支払え。

第二  事案の概要

一  本件は、亡富田文子(以下「文子」という。)が、平成五年一二月二五日から、被告の経営する安田医院(以下「被告医院」という。)において、風邪様症状に対する通院加療を受けていたところ、平成六年一月二日症状が悪化し、翌三日宮崎市郡医師会病院(以下「市郡医師会病院」という。)に転送され、入院治療を受けたものの、回復しないまま、同年二月一〇日敗血症による心不全のため死亡したことについて、文子の相続人である富田稔(以下「稔」という。訴訟中死亡し、富田泰隆が承継した。)及び富田泰隆が原告となって、被告には転院措置の遅滞という診療契約上の債務不履行又は不法行為に基づく責任があるとして損害賠償を請求している事案である。

二  争いのない事実等

1  文子は昭和三年九月一日生の女性である(甲四)。

2  被告は産婦人科を専門とし、内科の診療も行う医師である。被告医院には、被告以外の医師は勤務しておらず、X線撮影の設備も設置されていない(乙四、証人安田博、被告)。

3  文子は、平成五年一一月末ころから、咳や痰が出るようになったことから、同年一二月二五日、同月二八日、同月二九日及び同月三〇日、被告の診察を受け、抗生物質の投与等の治療を受けた。

4  文子は、平成六年一月二日、発熱及び呼吸困難の症状を呈し、午前及び午後の二回にわたり被告医院を訪れ、被告及び被告の子安田博(以下「博」という。)医師の治療を受けた。

5  文子は、平成六年一月三日、発熱及び呼吸困難のため全身衰弱した状態に陥ったため、被告医院を訪れたが、被告は、同女が重篤な状態にあったことから、同女を市郡医師会病院に転送した。

6  文子は、市郡医師会病院に入院し、成人呼吸窮迫症候群(以下「ARDS」という。)等に対する治療を受けたものの、回復することなく、平成六年二月一〇日、敗血症による心不全のため死亡した。

7 稔は文子の夫であり、原告は文子と稔の間の子であるところ、稔は本訴提起後の平成八年六月一三日に死亡した(甲四)。

三  原告の主張

1  過失

被告は、診療契約上の義務として、対症療法を継続して経過を観察するのみならず、患者の症状の原因となる病気を探索、究明する義務を負うところ、平成五年一二月二五日から風邪様の症状で被告病院に通院し治療を受けていた文子につき、右症状が軽快せず、平成六年一月二日までには右症状の悪化により肺炎を発症し、高熱と呼吸困難を来したのであるから、胸部X線撮影を実施して文子の病気を究明する必要があった。しかるに、被告病院にはX線撮影の設備がないのであるから、被告としては、平成六年一月二日の段階で、より設備が整った他の病院に転院させて、精密な検査を受けさせる義務があったのに、これを怠った。

2  因果関係

被告の右転送義務の遅滞により、文子の肺炎は悪化し、その結果、同女はARDSに罹患し、死亡するに至った。

3  損害

(一) 逸失利益 八一九万一四四四円

文子は死亡当時六五歳の主婦であり(同年齢の平均賃金二四八万六四〇〇円)、同女が七三歳まで家事労働に従事するとして、生活費割合を五〇パーセントとみて、新ホフマン方式で算出する(係数6.5886)と、その逸失利益額は右のとおりとなる。

(二) 文子の蒙った精神的損害に対する慰謝料 一〇〇〇万円

(三)  稔及び原告の蒙った精神的損害に対する慰謝料 各五〇〇万円

(四)  稔及び原告が負担した葬儀費用 一二〇万円

(五)  稔及び原告が負担する弁護士費用 二〇〇万円

よって、原告は、被告に対し、被告の診療契約上の債務不履行又は不法行為による損害賠償請求として三一三九万一四四四円及びこれに対する弁済期又は不法行為の後である平成七年二月二日から支払済みまで民法所定の年五分の割合による遅延損害金の支払いを求める。

四  被告の主張

1  過失の不存在

文子には、平成五年一二月二八日から平成六年一月一日までの間、発熱等の感染症の症状は認められず、特に平成五年一二月三一日及び平成六年一月一日の両日は被告医院に通院することもなく、自己管理できる状態であったのであり、また、文子が発熱や呼吸困難等感染症の症状を呈した同月二日にも、被告及び博医師は、文子に対し、抗生物質や解熱剤を投与するなど、肺感染症に対する充分な対症療法を実施し、その結果、同日夜には同女の症状は改善したのであるから、被告が右同日文子を診察した時点で同女を他の病院へ転送する義務を負担していたものとは認められない。

2  因果関係の不存在

ARDS発症の原因には定説はないものの、肺炎等の感染症の外、誤嚥、注射によるショック及び外傷等様々のものが上げられている。肺炎等の感染症がARDS発症の原因となる確率は低く、また、ARDSは肺に既往症や現往症がある人に起こるのではなく、生来健康な人に起こるものと考えられていることから、文子の発症した肺炎の悪化とその後のARDSへの罹患との間には、相当因果関係が認められない。

五  争点

1  被告が平成六年一月二日に文子を診察した時点で同女を他の病院に転送する義務があったか。

2  被告の転送義務の遅滞と、文子の肺炎の悪化、ARDSの発症及び死亡との間に因果関係があるか。

第三  争点に対する判断

一  当事者間に争いのない事実及び証拠(〈書証番号略〉、証人博、証人有田元英、原告稔、被告)により認められる事実を総合すると、本件の事実経過は以下のとおりである。

1  被告医院における治療経過

(一) 被告医院の医師は、産婦人科を専門とし、内科の診察も行う被告のみであり、同病院にはX線撮影の設備は設置されていない。また、被告の子博は、当時宮崎医科大学附属病院に勤務する産婦人科医であり、時々被告医院を訪問し、被告を手伝っていた。

文子は、平成五年一一月末ころから、発熱は認められないものの、朝起床したときに咳や痰が出るなど、軽い風邪様の症状を呈していた。そのため、同女は、市販の風邪薬を服用したが、効果が上がらなかったことから、正月を迎える前に症状を改善させようと考え、平成五年一二月二五日、自宅近くにある被告医院を訪れた。

被告は、触診、聴診及び血圧の測定(一一八mmHg―七〇mmHg、)等の診察を行った結果、軽い風邪である旨診断し、気管支炎の治療及び悪化予防並びに肺炎予防の目的をもってアミノグリコシド系抗生物質ブレカシンを注射するとともに、五日間分の経口剤として、同趣旨で広範囲経口抗菌製剤タリビッド三錠、アレルギー性疾患治療剤リザベン三錠、キサンチン系気管支拡張剤スロービッド二錠及び鎮咳・鎮痛・解熱剤カフコデ六錠を処方して経過を観察することにした。

被告が投与したブレカシンは、ゲンタマイシン耐性の緑膿菌、クレブシエラ、セラチア等のうちアミカシン感性菌による敗血症、気管支拡張症、肺炎、肺化膿症等の感染症に対し効果があり、タリビッドは、肺炎球菌、肺炎桿菌、ブドウ球菌、化膿・溶血レンサ球菌、インフルエンザ菌、緑膿菌、セラチア、ペプトストレプトコッカス等のうち本剤感性菌による肺炎、慢性気管支炎、びまん性汎細気管支炎、気管支拡張症等の感染症に効果があるとされている。

(甲三、乙一、四、九の1ないし4、13、証人博、原告稔、被告)

(二) 文子は、平成五年一二月二八日、被告病院を訪れ、被告に対し、咳は軽快し、発熱もないが、食欲がなく、めまいがする旨訴えた。同女の血圧は八〇mmHg―四〇mmHgで、低血圧の症状を呈していた。

そこで、被告は、風邪による全身疲労からくる自律神経失調症(メニエル症候群)である旨診断し、自律神経失調症による食欲不振及び全身倦怠に対する治療として、栄養剤、補液ラクチック五〇〇、ビタミンB1剤ネオラミン三B一〇及びビタミンC二〇〇を約一時間半かけて点滴静注した。さらに、被告は、五日間分の経口剤として、低血圧治療剤リズミック二錠、めまい止め剤メジナロンS三錠及び精神神経安定剤ソナコン三錠を処方して、経過を観察することとした。

(甲三、乙一、九の5ないし7、証人博、原告稔、被告)

(三) 被告医院は平成五年一二月二九日から平成六年一月三日までの間休診であったが、文子は、平成五年一二月二九日、稔とともに、被告医院を訪れ、被告の診察を受けた。

文子の症状は前日と変わらなかったことから、被告は、同女に対し、ラクチック五〇〇、ネオラミン三B一〇及びビタミンC二〇〇を点滴静注して、帰宅させた。

(甲三、乙一、原告稔、被告)

(四) 文子は、平成五年一二月三〇日にも、稔とともに、被告医院を訪れ、被告の診察を受けた。

文子は、平成五年一二月二六日以降抗生物質の投与を受けておらず、また同月二五日に処方された抗菌製剤等も同月二九日までに服用し終わったにもかかわらず、食欲不振等を訴えたにとどまり、発熱、咳及び湿性のラ音等の症状は認められなかった。そこで、被告は、文子の風邪様の症状は軽快したものと考え、同女に対し、自律神経失調症に対する治療として、ラクチック五〇〇、ネオラミン三B一〇及びビタミンC二〇〇の点滴静注を実施した。

文子は、帰宅後は、家事をせずに、時折横になったりして過ごした。

(甲三、乙一、原告稔、被告)

(五) 文子の症状は、平成五年一二月三一日及び平成六年一月一日も変わらず、同女は、自宅で床に着いたまま静養した。

(原告稔)

2  転院前日の状況

(一) 文子は、平成六年一月二日朝、発熱及び呼吸困難の症状を呈したことから、右同日午前九時ころ、稔とともに、被告医院を訪れた。

被告は、文子が急性気管支炎又は肺炎等の呼吸器感染症に罹患した旨診断し、同女に対し、ラクチック五〇〇、ビタミンB1及びビタミンCに、右感染症の治療を目的としてカルバペネム系抗生物質カルベニン0.5を加えた点滴を施用し、経口剤として同趣旨で持続性ニューキノロン抗菌剤スパラ二錠、解熱鎮痛剤ペレックス顆粒3.0及び鎮咳・鎮痛・解熱剤カフコデ六錠を処方して、帰宅させた。

この間、稔は、被告に対し、「肺炎ではないか。入院させなくてもよいか。」と質問をしたが、被告は、文子の症状は感染症の初期段階のものであると考え、「しばらく様子をみましょう。」と答えた。

なお、被告が投与したカルベニンは、ブドウ球菌、レンサ球菌、インフルエンザ菌、クレブシエラ、セラチア、バクテロイデス、ペプトストレプトコッカス等のうち本剤感性菌による敗血症、急性・慢性気管支炎、気管支拡張症、肺炎等に効果があり、スパラは、肺炎球菌、ブドウ球菌及び緑膿菌等のうち本剤感性菌による急性・慢性気管支炎、気管支拡張症、びまん性汎細気管支炎及び肺炎等の感染症に効果があるとされている。

(甲三、乙一、九の4、8、11、12、原告稔、被告)

(二) 文子は、右同日午後二時ころから、再び三八度以上の発熱を呈するようになった。そこで、稔が、午後五時ころ、被告医院に電話をかけ、解熱剤の処方を求めたところ、博医師の指示により、文子は、稔とともに、再度被告医院を訪れた。

博医師が文子を診察したところ、同女は、38.5度の発熱があり、軽い湿性のラ音も聞かれたことから、同医師も、同女が急性気管支炎又は肺炎等の呼吸器感染症に罹患したものと診断し、同女に対し、ラクチック五〇〇に抗生物質カルベニン0.5を加えた点滴を施用したほか、鎮痛・解熱・抗炎症剤ボルタレン(座薬)二五ミリグラムを挿入した。

この際、博医師は、文子に対し、体調の不良が継続するようであれば、入院も検討するよう提案したが、文子の希望もあり、入院は見送った。

(甲三、乙一、九の9ないし11、証人博、原告稔、被告)

(三) 文子は、帰宅後横になり安静にしていたところ、投薬の効果により、咳が止まり、熱が下がるなど一旦症状が改善し、右同日午後八時ころにはお粥を食べるなどして、就寝した。

(原告稔)

3  転院当日の状況

(一) ところが、文子の症状は、平成六年一月三日朝、著しく悪化し、稔は、右同日午前九時過ぎころ、同女を抱きかかえるようにして被告医院を訪れた。

そこで、被告が待合室で同女を診察したところ、同女は、発熱はなかったものの、ラ音が認められ、喘息様呼吸困難により全身衰弱した状態であったため、被告は直ちに救急車を呼び、同女を市郡医師会病院に転送した。

(甲三、乙一、証人博、原告稔、被告)

(二) 文子は、平成六年一月三日午前一一時七分ころ、市郡医師会病院に到着し、同病院の集中治療室に入院し、直ちに、リハビリテーション科(内科一般、整形外科及び小児科にまたがる。)を専門とする有田元英医師の診察を受けた。

文子は、①自発呼吸は認められるものの、高度の呼吸困難で、頻呼吸をしており、頚静脈が怒張しており、血圧は一一〇mmHg―七〇mmHgであるが、心拍数は一二〇ないし一四〇で通常(七〇ないし九〇)より速く、②ショック肺状態にあり、両肺に湿性ラ音が著名であり、胸部X線写真上両肺高度浸潤影が認められ、③心臓の僧坊弁において収縮期に雑音が、同X線写真上心臓の拡大(六五ないし七〇パーセント。正常値は四五ないし五〇パーセント。)がそれぞれ認められ、心電図の所見では、不整脈はなかったものの、波が小さく、心臓の機能低下が疑われ、④手足の浮腫が著名であり、⑤右同日午前一一時一五分ころの動脈血液中の酸素分圧(PaO2)は21.2mmHg(正常値は八一ないし九五。)、炭酸ガス分圧(PaCO2)は24.1mmHg(正常値は三五ないし四五。)、HCO3-は16.8m mol/l(正常値は二二ないし二八。右同日午後三時五三分ころ以降は正常値内か、むしろ上昇傾向となる。)であった。

そこで、有田医師は、左心室筋の収縮力の低下による左房圧の上昇及び肺うっ血の結果、呼吸困難及び乏尿を来しているのではないかとの印象を持ち、左心不全を念頭においた治療を開始し、①体のむくみをとるために、点滴の速度を遅くし、利尿剤ラシックスを投与し、②心臓の負担を減らすために、血管拡張剤ミリスロールを投与し、③呼吸困難に対処し、血液中の酸素濃度を改善するため、炭酸ガス・ナルコーシスに注意しながら、鼻に一ないし二センチメートル挿入したチューブを通じて二ないし三リットルの酸素投与を行った。また、午後零時ころには抗生物質ペニシリンを二グラム投与し、午後二時ころには低血圧に対処するため、ドパミンの投与を開始した。

(甲一、二、乙六の1ないし3、13、七の1、八の3、一一、一二、証人博、同有田、原告稔)

(三) ところが、循環器を専門とする柏木医師が心臓の超音波検査を実施した結果、心臓の動きは良いことが判明し、また、文子の白血球数は一万九五〇〇/mm3(正常値は三九〇〇ないし六三〇〇。)、CRPは18.4mg/dl(正常値は0.0ないし0.8。)と著増していること(その後も、白血球数は平成六年一月一二日まで一万二九〇〇ないし二万〇一〇〇/mm3、CRPも同月一〇日まで3.6ないし18.2mg/dlという高い値を示している。)から、心不全より肺感染症による呼吸不全の疑いが強くなった。

そこで、平成六年一月三日午後二時二〇分ころ吸入酸素量を五リットルに増やしたが、午後三時五三分ころの酸素分圧は30.4mmHg、炭酸ガス分圧は28.6mmHgにとどまり、右同日午後四時ころ吸入酸素量をさらに八リットルに増やしたもののやはり効果が上がらなかったことから、右同日午後六時ころ、重篤な両肺炎による呼吸不全との印象を持つに至り、柏木医師の指示により、気管挿管による人工呼吸管理(ただし、濃度一〇〇パーセントの酸素八リットルを一六回、呼気終末圧を一〇cmH2Oとする呼気終末陽圧(PEEP)により吸入させる方法)を実施し、酸素飽和度九五パーセント以上を目標とし、他方、高濃度の酸素は毒性があることから、徐々に吸入気酸素濃度(F1O2)を下げていくこととした。

右同日午後九時一九分ころには、吸入気酸素濃度を八〇パーセントまで下げても、酸素分圧は83.0mmHg、炭酸ガス分圧は41.7mmHgと正常値を示すようになった。そこで、右の吸入気酸素濃度をそのまま維持することにした。

また、有田医師らは、この間にも、感染症に対する治療として、抗生物質(ペニシリン、ミノマイシン)、免疫グロブリン製剤ポリグロビン及びステロイド剤ソルメドロールを順次投与した。

(甲一、二、乙六の2、4、5、8、9、13、八の4、一一、証人博、同有田)

4  その後の市郡医師会病院における治療経過等

(一) 平成六年一月四日午前七時一一分ころの酸素分圧は100.8mmHg、炭酸ガス分圧は47.5mmHgであり、吸入気酸素濃度を五〇パーセントに下げても、血中の酸素飽和度は九五パーセントを維持することができ、また、胸部X線撮影の結果、前日より心陰影ははっきりしており、肺の透過性も向上するなど、肺水腫につき改善傾向が見られた。

有田医師らは、この日も、感染症に対する治療のため、前日同様の投薬を行った。

(乙六の5、13、七の3、一三、証人有田)

(二) 平成六年一月五日午前六時五二分ころの酸素分圧は93.9mmHg、炭酸ガス分圧は46.8mmHgであり、右同日午前一〇時ころからは、水分を制限しつつ、高カロリー輸液を実施した。また、感染症治療のための投薬も継続された。

(甲一、乙六の5、13、一〇、一四)

(三) 平成六年一月六日は吸入気酸素濃度を四〇パーセントとしたところ、午前六時五三分ころの酸素分圧は102.8mmHg、炭酸ガス分圧は40.6mmHgであり、右同日午後二時一分ころはそれぞれ94.3mmHgと38.8mmHgであるなど、動脈血ガス分析の結果は良好であったが、CRP値は依然八mg/dlと高い値を示した。

(乙六の13、一〇)

(四) その後、平成六年一月九日には、酸素分圧は一一七mmHg、炭酸ガス分圧は39.7mmHgとなり、また、同月一〇日には、吸入気酸素濃度を四五パーセントに下げても、酸素分圧一五〇mmHg、炭酸ガス分圧四二mmHgであったことから、吸入気酸素濃度を四〇パーセントに下げることにした。

(乙六の6、証人有田)

(五) 呼吸器を専門とする河野医師と有田医師は、平成六年一月一二日、文子の症状はARDSであるとの診断に達し、稔と原告に対し、文子は重症肺炎からARDSを発症したこと、ARDS自体に対する治療薬はないこと、人工呼吸器を使用した呼吸管理と抗生物質投与による肺炎治療を行っていること、右肺のうっ血が同月七日ころやや改善したものの、左肺のうっ血は改善していないことなどを説明した。

さらに、この日報告された平成六年一月一〇日実施の細菌検査の結果により、文子が黄色ブドウ球菌感染症(MRSA)に罹患したことが判明したが、抗生物質バンコマイシンの投与により治癒した。

(乙六の6、7、16、証人有田)

(六) 平成六年一月一四日、胸部X線撮影の結果、同月一〇日よりは左肺の浸潤が軽減していることが判明し、有田医師は、稔に対し、その旨説明した。

(乙六の7、証人有田)

(七) 平成六年一月一七日、胸部X線撮影の結果、左肺浸潤影は不変であったのに対し、右肺浸潤影が増強し、また、吸入気酸素濃度三五パーセントで酸素分圧が七三mmHgと状態が悪化したことから、吸入気酸素濃度を四〇パーセントに増した。また、乏尿傾向や肝機能障害が認められるようになった。そこで、有田医師は、稔に対し、文子がMRSAに感染したため、これに対する治療を行ったことや、同女の状態が悪化しており、多臓器不全に移行して急変する可能性があることなどを説明した。

(乙六の7、八の1)

(八) その後、文子の白血球数は、平成六年二月四日には三万一八〇〇/mm3と著増し、同月五日には、敗血症性ショック症状及び多臓器不全の症状を呈するようになり(同日の白血球数は三万一五〇〇/mm3、翌六日は三万六六〇〇/mm3)、血圧も降下し、同月一〇日午前二時四七分、敗血症による心不全のため死亡するに至った。

(甲一、二、乙六の2、八の1、証人博)

5  成人呼吸窮迫症候群(ARDS)について

甲五の1、2、乙二、五、証人博及び同有田の証言によれば、ARDSについて次のことが認められる。

(一) 概念及び病因

ARDSとは、胸部X線上両側びまん性に肺胞浸潤像が認められる非心原性肺水腫であり、頻脈や重度の低酸素血症を伴う顕著な呼吸困難を呈する症候群である。

ARDSの本態は不明であり、発症の原因についても定説はないが、肺損傷等に対する肺組織の非特異的反応とされている。

肺損傷の原因としては、直接的(肺胞性)なものと間接的(血行性)なものが上げられる。直接的な損傷には、胃内容物の誤嚥(ARDSの発症頻度は約一〇パーセント)や高濃度酸素の吸入等があるが、ARDS症例のほとんどは間接的な損傷であり、その二大危険因子は、①白血球増多や発熱のような感染あるいは炎症を示す所見に加え、低血圧、説明のつかない代謝性アシドーシス(血中のHCO3-が一次的に低下した状態)又は体血管抵抗値の低下といった血行動態の明らかな異常値が認められる「敗血症性ショック」(同発症頻度は約四〇パーセント)と、②多発性長管骨骨折や骨盤骨折のほか、肺挫傷を伴い、または緊急蘇生のため大量輸血を必要とした「外傷」(同発症頻度は一五ないし二五パーセント)である。なお、肺炎は適切な治療によりほとんど治癒し、肺炎からARDSが発生し、さらに死亡に至る可能性は少ない。

ARDS発生のリスクを有する疾患の認識からARDSの発生までの時間は様々で、時間差がない場合から七二時間経過後に発生する場合まで認められる。

(二) 診断

ARDSの疾患概念は必ずしも統一されていないため、その診断基準もまちまちであるが、①敗血症、誤嚥、ショック、外傷、汎発性血管内凝固症候群、頻回の輸血、急性膵炎、重症肺感染症等、ARDSの発症に関連すると考えられている現病歴が存在すること、②慢性肺疾患及び左心不全が存在しないこと、③呼吸器症状として、急速に進行する呼吸困難、頻呼吸又は努力性呼吸が認められること、④胸部X線上、びまん性肺浸潤(初期は間質性、後期は肺胞性)の所見が認められること及び⑤動脈血中の酸素分圧五〇mmHg未満等の呼吸機能に関する所見認められることが基準として上げられていることが多い。

(三) 治療

①ARDSの基本病態である非心原性肺水腫自体に対する治療法は確立されていないが、②急性呼吸不全(高度の低酸素血症)に対する治療として、人工呼吸器による呼吸管理が必要となる場合が多く、高濃度の酸素吸入による障害を回避しつつ、組織への適切な酸素供給を行うべく、比較的短時間(数時間から一ないし二日間)の高濃度酸素投与は比較的安全と考えられていることから、初期には適切な動脈血酸素化を得るために高い吸入気酸素濃度で酸素投与を開始し、次いで、吸入気酸素濃度のレベルを適切な動脈血酸素化が得られる最小値まで下げることが行われる。また、吸入気酸素濃度を極端に高くしないで効率よく低酸素血症を改善させるために、呼気終末陽圧(PEEP)を用いることが多い。すなわち、吸入気酸素濃度を四〇ないし六〇パーセント(ただし、酸素分圧が上昇しがたいときは、やむを得ず酸素濃度を一〇〇パーセント近くにすることもある。)、呼気終末圧を五ないし一五cmH2OとしてPEEPを実施し、酸素分圧六〇mmHgを目標点とする。

その他、③基礎疾患に対する治療が必要となるが、特に敗血症の場合には、原病巣に対する治療が重要であり、また、合併症としての続発性感染症に対する対策としても、抗生物質の投与が有効である。また、④肺血管床からの水分漏出を防止するためにステロイド剤を用いることがあるし、⑤血管拡張剤や抗凝固剤の投与も試みられている。

しかしながら、ARDSは、通常の治療に反応しがたい病態の一つであるとされ、その予後は極めて悪く、死亡率は七〇ないし九〇パーセントとされる。

二  右一における事実経過によると、文子の死亡に至る経過は次のとおりであると認められる。

1  文子は、平成五年一一月末ころから、軽度の風邪症候群に罹患し、市販の風邪薬を継続服用したものの、容易に軽快しなかった。

2  そこで、文子は、平成五年一二月二五日から、被告医院に通院し、気管支炎の治療及び肺炎の予防を目的とした抗生物質の投与等の治療を受けたところ、同月三〇日までには、めまい及び食欲不振等の症状を除き、風邪症候群自体の症状は軽快した。

3  ところが、文子は、平成六年一月二日朝には、肺炎を発症し、発熱及び呼吸困難などの症状を呈するようになった。

そこで、被告及び博医師は、文子に対し、肺炎の治療を目的とした従前と異なる種類の抗生物質を投与するなどの治療を実施したところ、右同日夜には、右治療の効果もあって、同女の症状は一旦軽減した。

4  しかし、文子は、平成六年一月三日早朝、ARDSを発症するに至り、重度の呼吸困難及び全身衰弱等の症状を呈するようになり、同女を診察した被告は、同女を直ちに市郡医師会病院に転院させた。

5  市郡医師会病院の有田医師らは、文子に対し、各種検査を実施するとともに、人工呼吸管理及び抗生物質の投与等の治療を実施したところ、同日中に文子の動脈血ガス分析値は改善し、その後肺浸潤も多少軽減するなど、症状の改善傾向が見られたものの、平成六年二月四日以降、感染症が急激に重篤化し、同月一〇日、敗血症による心不全のため死亡するに至った。

三  争点1(転送義務の遅滞)について

原告は、文子は平成五年一二月二五日から風邪様の症状で被告病院に通院し治療を受けたものの、右症状が軽快せず、平成六年一月二日までには右症状の悪化により肺炎を発症し、高熱と呼吸困難を来したのであるから、被告としては、遅くとも平成六年一月二日には、胸部X線撮影等の設備が存する他の病院に転院させる義務があったのに、これを怠った旨主張する。

確かに、呼吸器症状及び発熱を伴う患者につき、肺炎を発症したかどうかを確認するためには、X線撮影による診断が有効であることは明らかである。

しかしながら、右認定の事実経過のとおり、文子の風邪症候群による症状は、遅くとも平成五年一二月三〇日までに軽快したこと、その後も平成六年一月一日までの間、同女に感染症を疑わせる発熱や呼吸器の症状は認められなかったこと、被告及び博医師は、同女が肺炎を発症した同月二日には、同女が肺炎等の呼吸器感染症に罹患した旨の診断の下、同女に対し、抗生物質や解熱剤を投与するなど、同症に対する充分な対症療法を実施し、その結果、同日夜には同女の症状は改善したこと、博医師は、右診察の際、同女に対し、体調の不良が継続するようであれば、入院も検討するよう提案したが、文子が入院を希望しなかったこと及び文子は右同日夜は未だARDSを発症していなかったことが認められる。そうだとすると、被告としては、平成六年一月二日、文子の症状に鑑み必要とされる治療行為を過不足なく実施しているものと評価することができる。

また、右認定のとおり、文子は平成六年一月三日早朝ARDSを発症したことが認められるが、市郡医師会病院において人工呼吸管理を受けた結果、右同日午後九時過ぎ以降の文子の動脈血ガス分析値がほぼ正常値内を示したことに鑑みると、右病院への転送はARDSの発症間もなく行われたものと推認することができ、さらに、ARDSの本態及び発症の原因が明らかでないことから、ARDSの発症を予期することが現時点の医学レベルでは不可能であることを併せ考慮すると、被告が、文子の右同日以降の症状の悪化(ARDSの発症)を予想して、同月二日の段階で同女を他の病院へ転送する義務を負担していたと言うこともできない。

四  以上によると、診療契約上の債務不履行又は不法行為を理由とする原告の賠償請求は、その余の点について判断するまでもなく理由がないので棄却することとし、民訴法八九条に従い、主文のとおり判決する。

(裁判長裁判官横山秀憲 裁判官古閑裕二 裁判官立川毅)

自由と民主主義を守るため、ウクライナ軍に支援を!
©大判例